また巨星が逝く。西武のレジェンドでもあった野村克也監督死去

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野村克也さんではなく、やはり野村克也監督と呼ぶべきだと思う。数々の好勝負を生み出した名将がまたひとり逝ってしまった。現役時代の自らを月見草と呼び、ONコンビの陰で、そのONと凌ぎを削りながら偉大な成績を残していった巨星。学年で見ると野村監督は長嶋茂雄終身名誉監督と同学年で、王貞治ホークス会長の4つ上、稲尾和久投手の2つ上ということになる。そして逝去されたこのタイミングで伝えられたこの4人によるヨーロッパ旅行の記念写真は、あまりにも豪華すぎる面子だった。

ライオンズのレジェンドでもあった野村克也捕手

2020年2月11日に野村監督はご自宅で亡くなられた。そしてライオンズナインも翌12日、練習前に野村監督に黙祷を捧げている。ライオンズファンの多くが知るように、最後の2年となった1979~1980年、野村克也捕手はライオンズのユニフォームを着ていた。そう、西武ライオンズ初年度となった1979年シーズン、できたばかりの西武球場でプレーをされていたのだ。もちろんもう全盛期のような活躍はできず、2年間で9本塁打しか打てなかったわけだが、生まれたばかりのチームには不可欠な生き字引としてチームを引っ張った。

引退セレモニーではライオンズの選手たちが一塁ベースと三塁ベースを結ぶように一直線に並び、一言ずつ送辞を送り野村捕手のミットを目掛け、1人ずつ最後のボールを投げていった。26年の現役生活で最後の僅か2年間だけの在籍だったが、ライオンズブルーのユニフォームを纏い、惜しまれながら現役を退いていった。その姿はもはや月見草などではなかった。

壁から始まり三冠王にまで伸し上がった選手時代

野村克也捕手のプロ野球人生は「壁」から始まっていった。当時ブルペンキャッチャーは壁と呼ばれ、投手陣にとっての練習道具としてしか見なされていなかった。今でこそブルペンキャッチャーは投手のフォームを細かく観察し、それを投手に伝える役目を担うことで投手陣から信頼される存在として活躍しているが、野村捕手がプロ入りした頃のブルペンキャッチャーは、まさに壁代わりでしかなかったと言う。

野村克也捕手はその最底辺から三冠王へと伸し上がっていった。現役時代の活躍を筆者があえてここで書く必要もないと思うが、11,970打席、10,472打数、113の犠牲フライ、378併殺打はすべてプロ野球歴代1位の数字だ。378併殺打はもちろん誇れる数字ではないわけだが、しかしこれも26年間、つまり四半世紀以上に渡り試合に出続けたからこそ成しえた数字だ。そして657本塁打は、868本塁打の王貞治選手に次ぐ歴代2位の数字だ。

盟友との対戦が生み出した伝説の日本シリーズ

筆者個人の記憶として色濃く残っているのは、1992年・1993年のヤクルト監督として森祇晶西武監督と対戦した日本シリーズと、1997年の東尾西武監督を圧倒した日本シリーズでの采配だ。これこそまさに最高峰の戦いであり、今でこそ見られなくなってしまった真の日本シリーズとしての姿だったと思う。ちなみに現役時代の巨人森祇晶捕手(現役時代は本名の森昌彦)は、日本シリーズでパ・リーグと対戦する際、野村捕手の元を訪れ対戦相手の特徴を教わっていたようだ。ふたりは捕手として最大のライバルでもありながら、盟友でもあった。だからこそ生まれた92~93年の名勝負だったのだろう。この日本シリーズは今なお伝説として語り継がれている。

野村監督は愛妻家としても知られている。世間では嫌われることも多かった毒舌家の故野村沙知代夫人だったが、その夫人のことを誰よりも愛していたという。その夫人が亡くなったのが2017年12月。それからまだ2年余りしか経っていない2020年2月11日、野村監督は沙知代夫人の元へと旅立っていった。この2年間は本当に寂しい思いをしたのだろう。野球ファンとしては野村克也監督の不在はただただ寂しい。だが再び夫人と一緒になれたことを思えば、決して不幸な死ではなかったと思う。天国では沙知代と共に、またあの笑顔を見せながら思う存分ボヤいてもらいたい。

⚾️ 筆者:Kaz@Twitter

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